05号(平成2年3月30日金曜日)


樫葉会の活発化を 30周年に向けて

 平成元年の5月14日に、例年通り樫葉会総会が開催された。天候に恵まれなかた前回とは違い、今回は、うららかな1日だった。そのためか今回は最初から多くの卒業生が参加した。そして平成元年度の卒業生だけでなく、1期生から24期生まで様々な世代の方々の参加を見ることが出来たのが、今回の総会の特徴だった。
 総会は、まず吉村会長と戸田校長先生の挨拶で始まり、続いて今回の重要な議題に入った。議題は、『けんよう』第3・4号で報告した樫葉会の役員組織の改革である。詳細は前号に掲載しましたが、ここでも簡単に述べておく。
 樫葉会の活動を、若い役員を中心として、今以上に活発化させるための組織づくりとそれに伴った規約の改正を行なうというものだった。そしてその後の活動を見ると、たしかに活発になってきた。
 こうしたことを見ても、今回の改革が来年の25周年記念総会に向けての重要なワンステップになるように思う。また、この議題の他に平成元年度の事業計画などが提出され、それぞれ採択された。
 しかし、今回の改革は非常に重要な改革であったとしても、役員の改革であり、それが樫葉会全体の活発化に直接つながるには不十分であると思う。樫葉会が真に活発化するには、会員すべての協力があってこそであり、今後とも会員諸氏の協力をお願いしたいと思う。
 総会後、参加者お待ちかねのとでも言うべきパーティーが開かれた。目の前には家庭クラブの生徒や食堂の方々に作っていただいた料理が並べられ、参加者全員思い思いの相手と昔話に花を咲かせていた。古い友人と出会い、近況報告を兼ねた思い出話をしていたのは勿論のこと、今回は様々な世代からの出席者があったため先輩の思わぬ高校時代の話あり、また逆に後輩達の現状や活躍ぶりを聞けたりといった光景が見られた。
 例年は、その年の卒業生が多いのだが、子供づれの卒業生も何組かあり、生駒高校の歴史の古さが感じられた。
 毎回パーティの時には出席した感想や近況などを書くノートも用意している。今回も様々な「声」を聞くことができた。その一部を紹介しよう。
 「上田先生、元気ですか。早く結婚出来ると良いですねェ」(24期生)といったリアルタイムな話から、「子供もぜひ生駒高校へ入学させたいです」(3期生) 「21年ぶりに訪れた母校は私と同じで大変年をとっている様子でした。」(3期生)といったものまで様々ありました。そして、久々に歩いて来た方からは、「長い坂が、しんどかった。」という生駒高校ならではの声もあった。
 さて、今年も5月の第2日曜日である5月13日に生駒高校で樫葉会総会が行われます。皆様のお越しをお待ちしています。


第二阪奈を考える

 現在、私たちの母校である生駒高等学校、それをとりまく一分町に静かではあるが確実にある変化が起ろうとしている。一般国道308号バイパス、いわゆる第二阪奈道路が建設されているのである。大阪、奈良両道路公社による事業の目的は、次の通りである。
 近年、自動車交通量の増加は著しく、道路整備が望まれている。とくに大阪、奈良間においては、周辺の地域開発に伴い、その傾向が著しく、早急な道路網の整備が必要となっている。
 第二阪奈有料道路は、一般国道308号バイパスとして、大阪都心部、東大阪市と奈良県北部地域を短時間で結ぶとともに、阪神高速道路大阪東大阪線および近畿自動車道天理吹田線と連絡することにより、広域的な道路網を形成するのである。また関西国際空港、関西文化学術研究都市へのアプローチ道路として産業・経済の発展、文化・福祉の向上に大きな役割を担う、というのである。次に事業の概要としてはこうである。
 第二阪奈有料道路は、大阪外環状線(東大阪市西石切町)を起点として阪奈道路(奈良市宝来町)を終点とする延長13.4キロメートルの自動車専用道路で、完成すると四車線の幹線道路となる(当面は2車線で暫時供用する予定。)
 生駒山系の下は長大トンネル(延長約5.6キロメートル)で通過することによって、山麓部への環境保全を図り、金剛生駒国定公園の自然環境に対する配慮を行なっている、というのである。
 実は今回この記事を担当することになった私は、24期生なのだが、私が高校在学中だった時、一分駅を降りたすぐにある一分町の掲示板に、「第二阪奈道路、建設絶対反対!」と、いう文字が掲げられていた。一分町に限らず道路建設予定地周辺の住民の声は、みな同じだと思う。特に一分町には、私たちの母校もあり、又一分小学校、幼稚園そして大瀬中学校などがある。今まで静かでおおらかなイメージのあった一分町としては、このような環境をおびやかされるのだからたまったものではない。それに一番おどろくことは、生駒高等学校と大瀬中学校との間に、道路を建設するというのである。教育施設の密集するこの一分町に道路を建設するということについて、私は、いまひとつ理解しがたい。
 昨年の夏、私の友達に会うために、自動車で、国道168号線を走っていると、一分駅を少し南にくだった所に大きな高架橋が建設中だった。いよいよ道路も本格的に形を表わしてきたという感じであった。この記事が「けんよう」に載るころには、どの位道路の形をこの一分町に表わすのだろうか。
 同時に私を含め卒業生の方々の大半は、ドライバーでもあると思う。ドライバーの立場で考えると第二阪奈の建設、完成により、今まで以上に、快適に大阪へ出ることができる。そして朝夕の交通渋滞の緩和もされる。やはりこの第二阪奈道路、これからの私たちの生活に欠せないものになっていく面も持っている。


あの先生は今

 生駒高校も創立して28年の歳月が流れました。創立期に生徒とともに石拾いや草刈りをした若かった先生方も今では体型や頭髪に異変が生じ(?)現役で教壇に立っている方、管理職になっている方、既に退職されている方など様々です。この欄では主に創立期から半ばごろまで在職されていた恩師の方々の近況をお知らせします。
 とてもこわくてやさしかった高橋俊二先生(保体)は高体連理事長を経て平成元年から室生高校の校長をされ、奥様ともども管理職をされています。中西幸雄先生(国語)は今斑鳩高校の校長をされていますがそこの教頭にはわかりやすく英語を話して下さった寺井義輝先生が就任されております。その他、乾喜代司先生(社会)は北大和高校、嶋田一郎先生(英語)は桜井高校、奥田喜則先生(理科)は高円高校の校長になっておられます。また野球部の部長として永年活躍された北野修先生(国語)は警察学校の主官や上牧高校の教頭を経て今は、県立図書館の館長をされています。またその図書館で主査をつとめるのは桜井高校教頭を経た松河要治先生(英語)です。創立期の若手の先生は現在、教頭になられている場合が多く、授業時の数々のダジャレを飛ばされた住岡達也先生(社会)は広陵高校の教頭をされており、カエルという異名を自称してユニークな生物の授業をして下さった新井喜五先生(理科)は二階堂高校の教頭をされています。吉本喜洋先生(美術)は奈良高校定時制、奥西二郎先生(英語)は西の京高校など前~中期に長く在職されていた先生も、それぞれの学校で教頭をされています。また流れるように古文を読まれた北森貞次先生(国語)は長く教育委員会に行かれ今は学校教育課長という立場におられます。
 私学に転勤された方も多くおられます。岡本義信先生(英語)は高田高校の校長を経て奈良学園の校長に、現在は奈良文化女子短大の教授、島田正義校長先生は桜井女子短大の地理学の教授をされてます。生駒高校中興の祖と思える金沢運校長先生は奈良文化女子短大の学生部長をされています。ユニークな授業の上田正憲先生(理科)は奈良文化女子短大附属高校で教えておられ、とてもわかりやすく古典を教えて下さった郡章校長先生は退職後も奈良学園の校長をされています。
 ただ残念なことは創立期から18年もの間、在職された後、二階堂高校の教頭になられた杉島平晴先生(社会)が数年前にお亡くなりになった事です。心より御冥福をお祈り致します。


いこまおろし

▼この闇、久しぶりに母校を訪れた時、私は「何か感じが違うな。」と思い、辺りを見回した。そしてすぐにその異変に気付き、驚いた。なんと本館の教室及び教室の窓がすべてアルミサッシに変わっていたのだ。▼私が高校時代の頃は、あの昔ながらの鉄枠の窓だったので、開ける度にガタガタいったりしていた。中には窓が錆びついたりしていて、動かないものもあった。その当時はうっとうしく思っていたが、いざ無くなってみると、あの時代が妙に懐かしく思われ、少し悲しい気持ちになった。▼さて、今年も5月13日に「第24回樫葉会総会」が行われる。私は樫葉会の役員になって3年目になるが、その期間中にきていただいた方は、9,000人以上にもなる卒業生の人数からみれば、あまりにも少ないと思う。今年の総会には、多数のご参加を。校舎を歩くだけでも昔の思い出が彷彿とし、懐かしさがこみあげること請け合い。にきびづらがこうも変わるものかと、そんな楽しい驚きにめぐりあえること間違いなし。私達役員のうれしさ限りなし。▼樫葉会も、もうすぐ四半世紀を迎えようとしています。人間でいえば、やっと社会生活に馴れ、これからという年です。我々役員も今まで以上に頑張っていきたいと思っています。▼最後に前回会報を送ったところ、所在不明で返送されて来たものも多くあります。もし引っ越されたり引っ越された方をご存じであれば、樫葉会にご一報を。


活躍する卒業生

 今年25期生の卒業生を出し卒業生全体では9,000名を越えるものとなりました。
 第1期生は42歳ぐらいとなり、家庭では良き父母となり企業では中堅として、頑張っています。
 そうした卒業生の活躍を紹介したいと思います。今回は4期生(田村俊)と5期生(津川昭)の2名方の活躍を紹介します。


 田村さんは、昭和44卒業で現在は大和郡山市で『田建築設計』という建築事務所を経営されています。平成元年大和郡山市の景観建築賞を受賞されました。田村さんの活躍はそれに止まらず、社会に貢献したいという熱意・郡山市を思う気持ちから平成元年の大和郡山市長選挙に出馬されました。
 次に紹介するアンケートの回答からも田村さんの熱き思いが感じられます。

アンケート

問、今の仕事は?
 建築設計(住宅・マンション、公民館、あらゆる建物の設計、都市計画、まちづくりアドバイザー)

問、高校時代の思い出は?
 青春解放感と共学、文化祭の仮装行列

問、市長選挙出馬の動機は?
 乱開発の波にのみこまれた大和郡山市の現実を分析し、これからの時代のトレンドを読み取り、新しいまちづくりの方向性を組み立てていきたい。また、大和郡山市の文化(城下町文化、金魚)や自然(山や河川公園せせらぎ)の保護、地場産業の振輿、地下を考慮した都市計画を提唱し、活力とぬくもりのある大和郡山市づくりにしたい。

間、今後の活動は?
 建築家の仕事としてぬくもりのあるまちづくりに取り組み、大和郡山市の都市計画の全体像を考えつつ、多くの人々に理解を求め、初心を忘れないで「住み良いまちづくり」を訴え続けていきたい。

問、今の日本に望むことは?
 今の日本は急いでばかりで本当に豊かであるとはとても一言えない。季節を味わえる杜会づくり、落ちこぼれのない社会づくりを目指して欲しい。

問、今樫葉会に望むことは?
 近況連絡コーナーをつくり「会報」で青春を蘇らせてほしい。
(編集部…分かりました。)


 次に紹介する津川昭さんは、今全日本男子ハンドボールの監督をされています。生駒高校を卒業して、大経大に進み、その後ハンドボールの強豪、湧永製薬に入り、昭和55年には全日本の主将となりました。この年、モスクワ五輪代表権を得たものの、日本の参加ボイコットで、出場できないという苦い経験もしたようです。ソウル五輪では思うような成績が挙げられず、監督を引き継いだ去年からチームの再建に取り組んでいます。今後の活躍に期待したいと思います。
 アンケートは欧州遠征のため成田に着いた時に書いていただいたものです。

アンケート

問、何年の卒業ですか?
 昭和45年(5期生)

問、今の仕事は?
 ハンドボール全日本男子監督
湧永製薬㈱
  ハンドボール部部長

問、あなたにとって、ハンドボールとは?
 いろんなことを教えてくれた先生であり、ストレスの種

問、高校時代の思い出は?
 ハンドボールの練習をしながら、陸上の練習をしている彼女を見ていた。

問、今後の活動は?
 チームをバルセロナオリンピックに出場させること。そして6位入賞させること。
(編集部…ぜひとも出場して頂きたいと思います。卒業生の皆さんも応援して下さい。)

問、樫葉会に望むことは?
 もっと活発に活動して欲しい。皆なつかしい友人に会いたがっています。
(編集部…頑張ります。)


沿革史シリーズ 修学旅行あれこれ

卒業期

方 面(泊 数)

長崎・阿蘇・別府(5泊6日車船中2泊)

長崎・阿蘇・別府(5泊6日車船中2泊)

長崎・阿蘇・別府(5泊6日車船中2泊)

別府・鹿児島・阿蘇(5泊6日車船中2泊)

別府・阿蘇・鹿児島(5泊6日車船中2泊)

別府・阿蘇・鹿児島(5泊6日車船中2泊)

別府・阿蘇・鹿児島(5泊6日車船中2泊)

別府・阿蘇・鹿児島(5泊6日車船中2泊)

富士・鬼押出し・善光寺等(5泊6日)

10

阿蘇・長崎・博多等(5泊6日車船中2泊)

11

富士・鬼押出し・善光寺等(4泊5日車中1泊)

12

阿蘇・長崎・雲仙(4泊5日船中1泊)

13

山陰方面又は伊豆方面

14

能登方面、伊豆方面、四国方面(2泊3日)

15

能登方面、信州方面、鎌倉方面

16

能登方面又は信州方面(2泊3日)

17

信州方面、飛騨高山方面、萩・津和野方面

18

萩・津和野方面(2泊3日)

19

能登方面(2泊3日)

20

能登方面(2泊3日)

21

軽井沢・鬼押出し・自棒湖等(2泊3日)

22

軽井沢・鬼押出し・白棒湖等(2泊3日)

23

軽井沢・鬼押出し・白樺湖等(2泊3日)

24

箱根・富士・鎌倉方面(2泊3日)

25

スキー・白棒高原(4泊5日車中1泊)

現3年

スキー・志賀高原(4泊5日車中1泊)

現2年

スキー・木島平(4泊5日車中1泊)

 高校生活での3大ビックイベントといえば、入学式卒業式そして修学旅行だと思います。今回はその内の1つである修学旅行を取り上げてみました。第1期生から今年の卒業生までがどういった所へ行ったのかを左表にまとめてみました。
 第1期生から順番に見ていきますと、いきなり九州方面5泊6日となっています。22期生以降の若い者から見れば「うらやましいなあ」という声が聞こえてきそうです。さらに表を見ていきますと、じつに様々な所へ行っていることがおわかりになると思います。そして今までの修学旅行をのパターンを変えたのが一番下の25期生のスキーだと思います。
 また修学旅行には様々なエピソードがつきものですが最近のものでは、「今は亡きアイドル(岡田有希子)と握手したんだ。〔21期生〕」「集合時間になっても1人たらない。〔20期生〕」といっためずらしいものもありました。
 このように皆様の修学旅行だけでなく第1期生から25年間を早足ですが見てみましたが、いかがでしたでしょうか。皆様も自分の修学旅行を思い出していただければ幸いだと思います。


クラス会だより

 昨年の11月に樫葉会館を利用して同窓会が行われました。以下参加者の一言を紹介します。

 1期生 3年6組
(平成元年11月19日)
●担任 住岡 達也先生
 8年ぶりの同窓会。飛び入りの1名を含めて15名集う。過去の恋愛の話や思い出の先生の話など大いに盛り上がる。23年の年月を忘れ、楽しむ。昭和54年より広陵高校に勤務。14年間生駒高校に勤務。
北村 和子(寝屋川市)
 初めは大人しかったみんなが、高校生に戻ったように感じられて、楽しかった。
森本 晴美
 高校卒業以来、初めて学校に来て当時のことを思い出し、懐かしい気持ちでいっぱいです。
森本 マサノ
 久しぶりに学校を訪問して、かなり環境が変わっていて大変驚きました。
武田 みゆき
 昔の友は本当にいい。いつまでもこの気持ちでいたい。
河崎 則子
 楽しいひとときを過ごさせて頂きました。有難うございました。
沼田 康子(旧姓…駒井)
 幹事さんに卒業写真を持って来て頂き、顔をダブらせた同窓生に会えて、楽しい1日を過ごさせて頂きました。
(編集部より…ここに掲載した言葉は書いていただいたものからの抄録です。)


母校に赴任して思い出すこと

 私が卒業した昭和44年は全国の大学に学園紛争が燎原の火のごとく燃えていた。私も少しは火の子をかぶったようで、学校に反撥を感じていた。卒業式の日、唯々諾々として式に出ることが若い私には納得できず、結局は出なかった。
 卒業後8年経った頃、教育実習生として母校を訪れた。担任の北森先生が、「渡すものがある」と言って卒業証書と記念品を渡してくださった。
(生駒高校教諭 登り賢二) (4期生)


編集後記

 「けんよう」第5号をお送りします。前号でお知らせしましたように、「広報部」という組織が役員会の中に発足しました。毎年1回きちんと新聞が発行できるように、内容をさらに充実したものにするために、ということです。
 みなさん、新聞が届いたら全部読んでいただいていますか。どんな記事が面白くて、どんな記事がつまらないでしょうか。どの年代の方にも興味が持っていただけるのではないか、と「沿革史シリーズ」を始めることにしました。「在校生達の活躍」に負けないように、「卒業生の活躍」というコーナーも設けました。
 「こんな人がいる」とか「こんなエピソードが使えるのでは」という事がありましたら、首をながーくして待っている編集部まで、ご一報をお願いします。

訃報連絡
 人気猫のマイケル君が、平成2年2月、死亡しました。亡骸は野球部員が葬ってくれました。