平成30年11月2日(金)の6,7限、本校体育館にて、昭和47年から毎年続いている「学校創立記念講演会」を今年も開催しました。今回は本校を昭和38年に卒業し、奈良県立医科大学名誉教授であり前学長・理事長である 吉岡 章 先生を講師にお招きし、ご講演いただきました。

 

 ただ、今年は公演に先立ち、まずは「高校生平和大使」として活躍した 原 苑美 さんから、全校生徒に向け活動の報告をしてもらいました。夏休みにスイスで訪れた場所やそこで出会った多くの人々との話を約20分に渡り紹介してくれました。世界にはいろんな立場の人々、いろんな考え方があることがわかりました。

 

 その後、「校歌斉唱」「同窓会長挨拶」「校長先生挨拶と講師先生の簡単な紹介」があり、いよいよ記念講演が約1時間にわたり行われました。

 自身の高校生時代の話や幼少時に医師に命を助けられた話、これからの社会における医療の問題、そして奈良県立医科大学が求める人材と教育理念等、後輩たちを前に熱心にご講演いただきました。

 

 

 

講師略歴   吉 岡  章 (よしおか あきら) 

 1963年本校卒業、1970年奈良県立医科大学を卒業し小児科医の道へ進む。1993年より奈良県立医科大学教授となり、2002年から2004年まで附属病院長をつとめる。また、2008年より奈良県立医科大学の理事長・学長に就任し、2014年に退任後名誉教授となる。現在は奈良県赤十字血液センターに勤務する。

 この間、1979年に西ドイツ・ボン大学実験血液学及び輸血学研究所へ、また、1981年~1982年に英国ウェールズ大学血液学教室へ留学。2010年から中国西安交通大学医学院客員教授となる。

 小児科学、血液学、血栓止血学を専門とし、各審議会、学会等で多くの要職を歴任する。また、1989年に「日本小児血液学会賞(大谷賞)」、2005年に「昭和天皇記念血液事業基金学術賞」、2007年に「国際血栓止血学会(ISTH)Distinguished Career Award」、2010年に「日本小児救急医学会 水田隆三記念賞」等、数々の賞を受賞する。

 

講演記録

   みなさんこんにちは

 昭和38年、なんと55年前に本校を卒業いたしました吉岡章でございます。今日は創立記念講演会にお招きをいただきましてありがとうございます。

『医学医療への道』と大きな題目と致しました。私は医師でありますが、医学医療の話だけをするわけではありません。今日医学医療は社会の中でどういう位置にあるのか、またそこで求められる人材はどういう人たちなのかを諸君にお話ができればと思います。話の内容は5つに分かれます。まず私の生い立ちと略歴を話させてください。2番目は我が国の医療の現状がどういう状況にあるのかについてかいつまんでお話しします。3番目は医学医療をとりまく環境の変化そしてたくさんの課題についてであります。4番目はそこで求められる人材についてお話ししたいと思います。そして、最後に55年先輩の私から皆様方へのメッセージで締めくくりたいと思います。

 私の生い立ちを4つに分けてお話ししたいと思います。

 私は奈良県天理市柳本町で生まれ育ちました。

 柳本町の紹介であります。第10代崇神天皇そして第12代の景行天皇の御陵やたくさんの古墳があります。この景行天皇は日本武尊のお父さんということになっています。私の育った小学校は昔の織田藩の陣屋跡で、重要文化財に指定され現在橿原神宮に文華殿としてそのまま残っています。小学校を卒業して70年経った我々が今もそこへ行くと小学校に会えるんです。こんな嬉しい事はありません。いずれこの奈良高校も平城山から引き上げることになるかも知れませんけれども、母校の一部がそのまま残っていていつでも訪れることができることは、教育における根幹を示してくれているようで、何とも嬉しい限りであります。

 私は柳本小学校を卒業し、かつての奈良学芸大学附属中学校今の教育大学附属中学校を卒業いたしました。その後奈高、奈良医大を卒業し、奈良医大の小児科の教授、学長・理事長を勤めました。

 私の奈良高時代と浪人時代の思い出です。1年生の時に生徒自治会の副委員長を務めました。運動も一生懸命やりました。中学時代は柔道にかなり打ち込みました。しかし、体力の限界を感じまして奈良高では当時9人制だったバレーボール部に入りました。

 私たち兄弟を産んでくれた母が中学校3年生の時に脳腫瘍で亡くなりました。父は1年経って新しい母を迎えました。とてもいいお母さんだったけれども、中学校3年生や高校生の時に実母が死に、継母が来ると言う事はそれなりに微妙な思春期であったと言うことができます。そんなことで、奈高に入っても荒れていて、喧嘩もしました。処分第一号(校長訓戒)で校長室に呼ばれまして、父親と一緒に頭を下げた記憶があります。そんなことで奈高の3年間はたくさんの思い出もありますけれども、バレーボールをし、生徒会をやり、勉強を少々やりと言う感じでした。3年生になって進路を考えたときに、母親がなくなったこともあり医学部を目指すことにしました。現役時代3つの国公立医学部を受けましたが見事に敗れました。1年浪人をしまして、再びチャレンジしました。京都大、京都府立医大、東京医科歯科大学でした。またまた見事にやられました。その時父親から「東京まで受けに行くのであれば、なんで奈良にある医科大学も受けないのだ、医者になるのだったら奈良医大でも充分医者になれるではないか」というアドヴァイスで受けた奈良医大がまぁ何とか通ったみたいです。と言いますのは入学式を無断欠席した人がいたので、なんとその補欠として合格が決まったのでした。したがって、私は奈良医大の入学式を経ていません。入学式に招かれない入学生であったわけであります。さて奈良医大に入って何をしたかです。

 医学部は2年間の進学過程と基礎医学課程の2年と臨床医学課程の2年の6年間、当時はそのように分かれていました。医学科の勉強は3年生から本気でやることになりました。何をしたかと言いますと、1番難しいだろうと思うバイオケミストリー(生化学)の英語の教科書を3月から8月まで6カ月かけて全訳しました。5冊のノートができました。そんなこともあって、一度教科書全部を自分で訳し、読んで理解をすると少なくとも生化学の講義、生化学のテストはスイスイで、テストは満点でした。同時に例えば生理学とか解剖学とかいう他の科目にもすごく余裕ができましたので、医学の勉強も楽しくなったしとうとう卒業するときにはダントツの首席卒業でありました。入学式も招かれなかったのに、首席で卒業できると言う芸当をやってしまったのであります。6年生になると、将来の医師の専門コースを決めなければなりません。私は母が死んだことで医学部に進学しましたけれども、その当時までは何科を目指すかは決めておりませんでした。実は私が1歳の時奈良医大の前身の奈良県立医学専門学校の附属病院で、大変重症な消化不良症で高熱も出て意識もなく、もうどうにもならないという状態で入院をしていました。そして九死に一生を得ていたことを父親母親から何度も聞かされて育ちました。6年生の時にそのことを小児科の当時の助教授の先生に話しましたら、「吉岡君、ひょっとしたらカルテがあるかもしれん。」と一緒に探して下さいました。なんとその当時のカルテが、汚れたままでありますけれども、出て参りました。左端に、「吉岡章 一歳 柳本町」と書いてあります。入院いたしましたのは8月5日であります。連日40度を超える熱が出ていて意識もありません。病名は重症消化不良症で、医師もさじを投げる状態でありましたけれども、なんとか助けようと輸血20ccが連日行われています。それ以外に大量皮下注射と言って、両方の太ももに100ccずつの輸液をしてくれました。そういう治療が功を奏して、次の週には前の週よりも熱が引いてきました。しかしまた熱が出ました。なんと8月15日です。昭和20年8月15日、わが日本が太平洋戦争に負けた日です。終戦の日です。私がこのカルテを見たときに、終戦の日もその前の日もその後の日も、意識がなくてまともな薬もない状態で、黙々と医師と看護師は治療を続けてくれていたということを知ったわけです。そのおかげで何とか私は命拾いをし、10月中頃には退院となりました。その助教授は、「吉岡君、君は小児科をやることになるな?」と言われましたから、私も「ハイ」と答えていました。小児科を選んだことに何のためらいもなかったのです。

 次に、わが国の医療が今どんな現状にあるかということで、1つは人口動態と医療費・医療保険についてお話をします。わが国の人口動態は、本来ピラミッド型ですが、既に東大寺の釣鐘のような形になっております。さらに、若年層がやせ細ってきています。出生率を示していますが、減少の一途です。乳児死亡率の低さは世界でトップになりました。そういうことで、亡くなる方の多くは高齢者となってきております。わが国の平均寿命(0歳児の余命)でありますけれども女性は87歳、男性で80.7歳、いずれも世界トップクラスです。これだけ寿命は伸びていますけれども、問題はご存じのように、いかに健康で歳を経るか、“健康寿命”が何歳にあるのかが重要であります。我々としては医療を通じて平均寿命と健康寿命をできるだけ近づける努力が、これからも必要だと考えております。

 さて国民医療費はどうなっているでしょうか。国家予算はおよそ100兆円で、国が支出しているのは約30兆円ですが、これに市町村や県が支出しているものと企業が出しているものを含めると医療費に42兆円もかかっているのであります。そして、国民一人当たりの医療費は約33万円と大変な高額であります。さて医療保険はどうなっているのでしょうか。皆さん方が診療所にかかると保険が効きます。一般のサラリーマンの健康保険は個人と企業が負担しています。このように何十万、何百万円とかかる医療費を医療保険という形で互いに負担しあっているのがわが国の医療の根幹であります。皆さん方が患者さんとして病院に行くと当然一定の診察、治療を受けます。そうすると患者さんは自己負担金(2割~3割)を支払います。それに対して保険組合が残りのお金を払ってくれるわけであります。国民健康保険の場合はお父さんお母さんたち社会人があらかじめ保険金を払い、そこに地方公共団体がお金を出すということで成り立っています。この日本の保険制度はおそらく世界に類を見ないほど高度に発達した素晴らしい制度であります。しかし、先ほど示しましたように医療費はなんと国家予算で30兆円、全体では42兆円もかかっているのです。これにどのように取り組むのかという事は将来医学医療に進むべき皆さん方の双肩にもかかっております。医療保険は果たしてこれを継続発展できるのかという瀬戸際であります。

 さてここからは医学医療を取り巻く環境の変化と課題についてお話しします。まず医学水準の高度化、これはお分かりだと思います。寿命も伸びましたが、治療する内容がどんどん高度になりました。2番目は医療人の数の変化であります。量的には日本はなんとかやっておりますけれども、質的にはもっと高水準にできるはずであります。3番目は超高齢社会の到来であります。先ほど言いましたように平均寿命、健康寿命が伸びています。したがって、それにつぎ込む治療費も毎年どんどんと右肩上がりであります。4番目はそういう医療も実は地方に根付いた医療であるべきでありまして、我々が病気になったら普通地元で医療を受けます。市町村県が疲弊してしまうと、この医療は成り立ちません。したがって、何とか地方で解決することができる人口数、企業あるいは我々の熱意、労働力、などで維持していく必要があるのであります。

そこで求められるのが有為な人材であります。まず、医療職は幅広いです。医師を例にとりますと、臨床医、これは病院や診療所で出会うお医者さんです。次は研究医であります。医学は進まなければなりません。すなわち教科書が新しく書き換えられる、そういう新しい発想、理論や新しい手術法を開発する必要があります。それは概ね大学、大学院または研究所で行われる仕事であります。同時に有為な人材を育てる教育も重要であります。教育は概ね医科大や歯科大学、薬大、あるいは看護大学といった医療関係の大学で行われます。そういうところにも医師は必要です。また保健所や保健センターのように行政医と呼ばれる人たちも必要であります。例えば関空で、いろんな病気を持ち込ませないための検疫官も医者であります。その他産業医と言われる会社にいるお医者さん、あるいは製薬企業、保険会社等にもお医者さんが働いています。このように医師という職業には想像できる医師以外にいろんな幅広い職域職種があります。

 さて、医師になったらどういう医師になるのか。私は小児科医です。しかし内科医もいます。これには循環器や呼吸器や消化器などたくさんの専門科としての内科があります。脳神経内科や精神科あるいは小児科などもあります。外科には一般外科以外に消化器外科、呼吸器外科、心臓あるいは胸部外科があります。その他整形外科や脳外科、産婦人科さらに総合医療部門として、総合診療科や救急科、ハビリテーション科や臨床検査科などいろんな職種があります。また研究部門で働く医師もいます。基礎医学で最近本庶教授がノーベル賞をお取りになりましたけれども、先生は典型的な研究医であります。このように一口に医師を目指したとしても、幅の広い仕事がありますよということを紹介したいのであります。

 次に医療と言うのは医師と患者だけで成り立っているわけではありません。医師、歯科医師と看護師、助産師がいますけれども、周囲にはたくさんの職種があります。薬剤師、栄養士、放射線技師、あるいは臨床検査技師などなどたくさんあります。この人たちの多くは国家資格で、ライセンスを持ってやる仕事であります。それからカウンセラー、ケースワーカーいろんな人がいます。もちろん介護士、介護福祉士とそのような社会福祉関係の方々も医療に大きく関わりますし、学校の先生、特に養護教諭と小児科医とのコラボレーションも大変重要な位置を占めています。救命救急士や歯科衛生士も保健師もそうであります。このように医学医療と言うのは決して医師だけで成り立っているのではなく、こういうたくさんの職種の人たちとうまく連携することによってチーム医療を進めているのであります。

 全国に医科大学はなんと82もあります。それから歯科大学が29、薬大、薬学部は25あります。どこにでも行けます。奈良県下に看護系の大学は4つあり、短期大学も1つあります。看護師を目指す場合には他に看護師養成校があります。それは11もあります。このように今後医療を目指す場合奈良県内でもこれだけありますし、全国にはたくさんの専門大学があります。奈良高校と医学部進学の関係を表にいたしました。近畿地方の医学部高校別合格者です。我が奈良高校は26番目に入っています。奈良高校は膳所や北野や天王寺と肩を並べる水準の高等学校だと言えます。奈良高校から主な薬学部にどれだけ進学しているのかを調べていただきました。最近の5年を見ますと20~30人は近畿の主な薬大、薬学部に進んでおられます。看護系は看護師だけではなく、放射線技師や、臨床検査技師さんの学校も含めてでありますが、概ね10名から20名近くが奈良高校から毎年進学しています。

 さて求められる人材を大学側から見たときにはどういう人たちを求めているのかが重要であります。奈良県立医科大学の理念からそれをひもときますとこういうことになります。「本学は医学看護学及びこれらの関連領域で活躍できる人材を育成するとともに、国際的に通用する高度の研究と医療を通じて医学及び看護学の発展を図り、地域社会さらにはひろく人類の福祉に寄与することを理念とする」。もう少し詳しく見てみます。研究面では「その成果を患者への最善の医療に生かし、奈良県民の健康増進を図るとともに最先端の研究により医学の進歩に貢献します」。あなた方の中にそういう人材を求めているのであります。一番大事なのは診療・医療です。「患者と心が通い合う人間味溢れる医療人を育成し、地域と緊密な連携のもとで奈良県民を守る最終ディフェンスラインとして安全で安心できる最善の医療を提供します」。これが奈良医大の示している診療の理念であります。結果として地域の安全・安心と社会の発展に貢献することが医療人に求められています。また奈良県内の医療機関と連携をして高度で切れ目のない医療を目指しています。そこで、現在奈良医大は地域社会とともにとどのように発展するのかを考えて、MBT、(Medicine-Based Town、医学を基盤にしたまちづくり)を提唱しています。県、橿原市そして奈良医大、さらに120数社の大小の企業とともに、地域に貢献できるまちづくり、医学医療を基盤に安心安全のまちを作るというのが我々の目標であります。ぜひ奈良高校から奈良医大の医学部、看護学部あるいはその他の医学部、薬学部等たくさんの医療系に進んでもらいたいと願ってやみません。

 ちょっと奈良医大の宣伝をしたいと思います。医学科、特に後期入試は現在 (偏差値72.5) でめちゃめちゃ難しいです。ハードルの大変高い医科大学になっております。それ以外の全体の約半分はいわゆる前期であります。前期一般以外に緊急医師枠が13人います。これは毎月20万円の奨学金を提供します。6年間です。その代わりに奈良県の主な医療機関で9年間勤務することを約束してもらいます。そのことを前もって宣言することができる人、それを親御さんが保証できる人はこの緊急医師枠で13人の枠に入ります。目指してください。それから地域枠というのがあります。これは学校長の推薦をいただいて奈良県の高等学校在学中、あるいは奈良県に在住している方はこの25人の枠で受けることができます。いずれにしましても約半数の60人、この前期の枠も今日では偏差値は高く (偏差値70) 決して簡単なハードルではありませんけれども、毎年奈高からは優秀な人材が入学してくれています。今年は3名来てくれました。奈良医大は看護学科も持っています。看護学科の定員は85人ですけれども、できるだけ地域から取りたいということで一般枠は35人、それ以外に推薦枠、社会人枠あるいは地域枠がありかなりたくさんの奈良県の人を受け入れています。看護学科の今年の卒業生88名の中で県内出身者は60人とかなり多いのであります。

 いよいよ私から奈良高生へのメッセージであります。これは決して医学医療の話だけではなく聞いていただきたいと思います。きっと君たちはいろんな夢を持っていると思います。ぜひ夢を実現すべく頑張ってほしいけれども、集められる情報の中で真に大事なものはごく一部です。だから大事な事は、例えば奈良高なら奈良高の中で、家族なら家族の中で、あるいは地域なら地域の中で、自分の特性の中で、目の前の道あるいは可能性をぜひ見つめていただきたい。そして進んでいただきたい。2番目には高校時代は知識そしてもう一つ大事な体力これを十分に備えていただきたい。少しずつ経験を積みながら進みますと、徐々に本当の自分の特性・適性がわかってきます。奈高で学んだ諸君ですから、本当にやりたい事は必ずわかってきます。それを信じてやっていけば間違いありません。そこで大事なことは、その過程では必ずつまずきが起こります。もしつまずいたら、ちょっと休んだら良いのです。途中でちょっと成績が落ちてもそんなに腐る必要はないのです。少し休んで、小さなしかし大事な修正を加えることです。自分でやり方や考え方、毎日のスケジュールなどをちょっと変えるのです。そういう小さな修正を繰り返しながら、やっていくとどんどん視野が広がり花開いていくと私は信じています。最後に奈良県立医科大学は大和三山のちょうど中心ど真ん中にあります。畝傍山、香具山、耳成山に囲まれた素晴らしいところにあります。

 

 やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし

 

 これは古事記に日本武尊が辞世の句として詠んだものであります。まほろばと言うのは優れて美しい場所であります。大和は美しい国であります。快い場所でもあり、そして住みやすい場所でもあります。そんな意味を古事記の時代に日本武尊は詠んでいるのです。彼は1番最初に示しましたあの景行天皇の長男であります。父親は厳しい人で九州の熊襲退治に出されました。やっと平らげて帰ってきたら、今度は今の東北地方の蝦夷征伐に行けと出されました。何とか平らげて傷ついた体で帰ってくるわけでありますけれども、とうとう大和には戻ることができませんでした。鈴鹿山中で倒れてしまうわけです。そしてこの辞世の句を詠んだのであります。いかに大和が優れているか、いかに奈良のこの地は文化と伝統があるか、ということをこの句は言っていますし、私もそう思います。あなた方は偶然にしろ、この大和に生まれ育ち、奈良高校に集ったわけであります。どうかこの地元奈良大和を愛して、またこの地元が日本の中心として発展するように、ぜひしっかり勉強をし、体力を養い、社会性を育んでいただきたいと思います。ご静聴有り難うございました。