10号(平成7年4月1日土曜日)


樫葉会と共に 会長 吉岡宏之

 樫葉会も年数を積み重ね30周年を迎えることになりました。会員の皆様には樫葉会の活動につき、御理解と御協力をいただきましてありがとうございます。毎年の総会には、新会員を中心として多くの会員に出席していただいています。1期生から様々な世代の方々に参加していただけることが我々の希望であり、究極の課題であります。
 初期の頃は、役員全員が経験も浅く試行錯誤の連続であったことを思い出します。そして、樫葉会の活性化をいかにしていくかを提案し、討議したものでありました。近年、若い役員を中心とした活性化のために人員の配置や組織作りと、それを可能とするような色々な規約の改正を行い、組織の若返り、弾力化が図れたと思います。
 反面、この改革は、樫葉会全体の活性化というと未だ不十分であると指摘できます。真に活性化を図るためには、会員各位の協力・援助が必要であり、今後とも一層の御協力をお願いしたいのであります。
 そして、「けんよう」は樫葉会の機関誌であり、各会員多数に大いに利用していただきたいのであります。以前、同期会の開催を提案しましたが、各クラスの同窓会もそれ以上に開催していただき、その時のニュース等を大いに記載させていただき、話題を豊富にしたいのであります。
 「けんよう」を作成するにあたって、多数の会員が協力をして下さっていることに、大いに感謝をしている次第です。


生駒高校の30年を振り返って

 みなさんは「月形龍之介」という人物を知っていますか?実はこんな問いかけをしている私自身も知らなかったのですが、ナント、生駒高校が設立されるずっと前にこの土地は映画のロケ地として使われていました。そこで活躍していた俳優さんの名前が「月形龍之介」という訳です。こんな話をして下さったのは、昭和42年から生駒高校の事務室に勤務なさっている高篠さんなのです。
 他にも、何期生のみなさんまでが記憶されているのかはわかりませんが、開校当時、近鉄生駒線を走る電車は「単線手動扉」だったということも、懐かしそうに話して下さいました。
 生駒線はごく最近までは単線が主でしたが、「手動扉」となると、想像してもなかなかピンとこない方が多いと思います。もしこれを読んで目を細め懐かしめる方がいれば、それはいわゆる……。
 昔から普通科のみの生駒高校ですが、「商業」という科目があった時代がありました。その授業で使われていたものでしょうか。事務室に、1つのそろばんがあります。生徒の忘れ物らしく女性の名前が彫ってあります。何年前からか彼女のそろばんは、今も事務室で、さりげなく活躍しています。
 とにもかくにも生駒高校は、今では私の想像もつかない歴史を持つ土地に、更に歴史を積み重ね、歩んでいるという訳です。


「けんよう」10年の歩み

 樫葉会で「けんよう」を発行し始めて、今回で10号となりました。ここで改めて1号からの記事を振り返りたいと思います。
 1号は、樫葉会20周年の記念行事がトップです。その記念行事の1つとして「けんよう」が発刊されました。それから、樫葉会館が完成、見取り図や全景写真が掲載されています。
 2号は、新校舎(音楽室を含む)の完成、四半世紀の変遷。3・4合併号は、生駒高校で受け入れた留学生たちの紹介、卒業記念品の沿革史・5号は、第二阪奈をとりあげ、懐かしい先生たちの近況を紹介しました。
 いずれの号にも、「にせもの樫葉会にご注意」という記事があります。同窓会では、電話での問い合わせは一切行っておりません。今でも同窓会の方々から、問い合わせがありますので、再度ご注意ください。
 6号では、25回目の総会案内ということで紙面が4ページに増え、各都道府県に何名の同窓生がいるか、調査しました。本校の今昔、ということで開校当時の写真が載っています。
 7号では、なんといっても、25年間会長をしてくださった吉村氏から、新しく吉岡氏に会長職がバトンタッチされたことが、一番の話題でしょう。
 8号は、生駒高校30周年の関連記事一色です。
 9号では、新装開業した食堂の西岳さんにインタビューし、当時のメニューや値段などを伺いました。
 10号を区切りとし、「けんよう」は今後、財政的な理由により2年に1度の発行となります。ますますの応援をお願いいたします。


いこまおろし

 生駒高校に通った3年間は、生駒山や周辺の田んぼや木々の小さな変化で、季節の移り変わりを感じられた。様々な行事やクラブ活動など、本当にいろんなことがあり、多くの思い出がある。▼この前、生駒高校へ行ってきた。一分駅で数人の生駒高校生を見かけた。なつかしく思いながら校門前の坂道をのぼり、桜の木を見て、何故かほっとした。生駒高校の周辺がどんどん変化していく中、(例えば、第二阪奈道路の建設、近鉄生駒線の複線化、そして生駒高校の食堂の改築など)それでも生駒高校と周辺の自然が変わらずあったことにほっとしたのかもしれない。▼今の世の中、変わっていくものは多いが、生駒高校に通った日々は、いつまでも変わらない。そして、これからも同じように通う生徒はいる。生駒高校が30年間、卒業生を送り出し、いつまでも暖かく見守っていることも変わらない。▼周りの変化にとらわれず、ひとつの夢に向かってがんばっていた自分と友達、そしてそれを支えてくれた人々。生駒高校が変わらないということは、あの頃の真っすぐだった全てのものを持ち続けていられるということだろう。そして、その証拠が生駒高校なのだから。


海外で活躍する卒業生

 平成6年2月9日、1人の卒業生が母校を訪れた。その方は、7期生の小林由憲さん。昭和47年に本校を卒業後、翌年関西学院大学社会学部に入学。大学卒業後、帝塚山学院大学オーディオビジュアルセンターの職員として勤務する。4年間務めた後、幼児教育学を志し、聖和大学大学院に入学。修了後は、北陸学院短大、大阪城南女子短大で教鞭をとられた。「自分の可能性を試したい」ということで大学を辞められ、渡米。ボストン大学で1年間、英語を学ぶかたわら各地の学校めぐりをし、学校のシステムや運営方法を学ばれた。さらに大学院への進学を希望され、その為に必要な書類を揃えるために帰国されたとのことである。現在はボストン近郊在住。
 たまたま時間があいたので立ち寄った、とおっしゃる小林さんに、色々とお話を伺ってみた。
 20年ぶりに訪れた母校の感想を尋ねると、「さすがに校舎が古くなりましたね。」とのこと。温和なお顔に笑みがうかぶ。周囲の街並の変化にも「ずい分家が増えましたね」と驚かれている様子だった。放課後に補習が行われていることをお話すると、「そういえば、進学する人が随分増えたようですね。」とおっしゃった。小林さんの在学中は就職する生徒が半数位いたという。ちなみに、本校生徒の印象は「かわいらしい。」とのことだ。 アメリカでの生活についてお伺いしたところ、アメリカ人はとてもオープンで、心のあたたかい人が多いそうだ。困っている人や弱い人には必ず手をさしのべ、知らない人同士でもにこやかに談笑する。初めは何かととまどうことが多かったけれど、そういった人達の思いやりに接し、アメリカ人とうちとけることができた、と話された。「日本人は自分の心に殻をかぶせてしまいがちです。なぜでしょう。もっと心を開いて人とうちとけられれば、楽しくなるのに。」とおっしゃる小林さん。このことは、日本人が国際社会で活躍するためには考えてゆかねばならない課題であろう。
 「私の年収は同級生の3分の1だけれど、好きな勉強にうちこめる自分は豊かな人間なんだ、と思っています。」
 そこには、自らの志す道を邁進する1人の人間の真摯な姿があった。

社会人野球で活躍する卒業生

平成元年に24期生として卒業された川端篤志さんにお話を伺いました。
 卒業後、京都産業大学に入学され、その後、大阪ガスヘと進まれました。
 高校時代は、ごく普通の生徒だったとおっしゃった川端さんは、野球部に所属されていたため丸坊主でしたが、「高校球児らしくて良かったと思います。」とのことでした。高校時代を振り返って現野球部の監督の印象は、「兄貴のような存在でしたね。」と懐しそうにおっしゃいました。
 大学におかれては、投手として全国選手権大会でも好投し、新聞紙上等で大きく取り上げられ、御覧になった方も大勢いるかと思いま す。
 「何でもやればできる。」と高校時代の厳しい練習を毎日欠かすことなくこなし、乗り越えてこられた川端さんの言葉は自信に満ちてお り、「在校生の皆さん、何事も最後まであきらめずに頑張って下さい。」とのメッセージをいただきました。
 最後に、川端さんにとって『野球』とは何ですかと尋ねたところ、少し考えられて、『人生』だと答えて下さいました。
 いつまでも、野球に対する熱情を持ち続けられる川端さん。皆さんも今、心を熱くする何かをお持ちでしょうか。


北野修先生をかこむ会

 昭和40年より16年間、本校で教鞭を執られた北野修先生が、県高野連会長・奈良商業高校校長を最終職に昨年の3月、ご退職されました。そのことに際し、本校在学中に北野先生とともにグラウンドで汗を流した野球部のOBによって、去る1月29日(日)、「北野修先生ご退職記念会」を奈良市内で開きました。
 当日は18期生までのOB約70人が出席し、尽きることのない思い出話に花が咲きました。北野の先生のお顔にも、終始笑みの絶えない楽しい会でした。
    野球部監督 松元