第02号(昭和62年3月30日月曜日)


飛躍する樫葉会 ―新たなる出発―

 昭和61年5月11日、樫葉会は、20周年総会として盛大なる記念式典を行い、無事に幕を閉じることができました。これはひとえに学校関係の方々や樫葉会会員の御力添えのおかげです。母校創立20周年の際は、待望の樫葉会館が完成しました。これは会の発展を象徴するものであり、又、今後の一層の発展のための礎であると考えております。樫葉会館設立と相前後して、役員会活動も一層活発になっています。毎年5月の総会に向けての準備、卒業記念品、会員の異動等の事務処理などの毎年の仕事に加え、昨年は、20周年記念事業としての名簿改訂版作成、樫葉会館前庭の整備など、役員会も小規模なものを含めれば、20回を数えます。又、事務局の電話も頻繁にベルがなり、「どこかでこの活動が役立っているのだ、多くの卒業生の方々がみまもってくださっているのだ。」と忙しい毎日をうれしく思っています。若輩のことですから、時には、おしかりの電話をうけたり、住所変更の照会が不十分であったりと、まだまだ、これからの部分も多く残されていますが、ひとつひとつ努力を積み重ねていきたいと思います。もう1つ、樫葉会は、新しい試みに取り組んでいます。それは、この機関紙“けんよう”です。今回で第2号を迎える“けんよう”は、母校や樫葉会の活躍をお知らせするとともに会員相互の情報網的役割をも持つものでありたいと考えております。毎年、3月末の発刊にむけ、新聞などとんと縁のない若手役員が仕事や後期試験のあい間をぬって、「ああでもない、こうでもない」と、試行錯誤の繰り返しです。それでも、取材先の先輩宅での「ご苦労さん、頑張ってや」の一言が、どんなに励みになることか……。
 今、樫葉会は、20周年という節目を経て、新たなる出発の時を迎えようとしております。つまり、新聞、名簿、総会、樫葉会館のいずれをとっても、内容や方法は妥当か、情報の伝達方法や時期は適当か、総会に参加したり、樫葉会館を利用する方々が多くなるにはどのようにすればよいのかなど、20周年の記念事業が、その年だけに終わらずに、今後の発展の踏み台になるか否かは、今後の活動いかんであると、考えております。
 今春巣立った卒業生を加え、会員は8,000名を越えました。この新聞が皆様の手に届く頃には、役員会も新役員を加え、益々活気にあふれていることでしょう。まさに「今こそ飛躍」そう感じるのです。校門から望む生駒山の風景が、共通する思い出であるように、樫葉会も卒業生8,000余名の心に消えることのない存在でありたいと、考えております。


生駒高校は今…

 昭和38年に県民・地元の大きな期待を受けて生駒高校と桜井商業高校が設立された。奈良県の産業振興の為、前年には奈良工業高校と王寺工業高校が建設されたばかりで特に生駒高校は唯一の普通科新設校として注目をあびていた。その後10年ほど経て昭和49年には北大和高校・広陵高校、50年には橿原高校、52年には二階堂高校、53年には西の京高校・斑鳩高校、55年には平城高校・香芝高校、58年には高円高校・耳成高校・志貴高校・片桐高校、59年には富雄高校・上牧高校・高取高校、61年には信貴ヶ丘高校・室生高校、62年には登美ヶ丘高校が新設校として増設された。このように県立高校が増えることで生駒高校は名実共に中堅あるいは伝統のある学校として父母県民に評価されている。
 この高校増設にともなって、ふたつのことが結果としてあらわれた。ひとつは増設校に足りうる分だけ教員の人数増が必要であるから新採用の若い先生方が10年前、20年前に比べ多くなったことである。また同時に多くの恩師の先生方が転勤されていった。生駒高校の現職員の平均年齢は32歳くらいということで小・中学校の教職員構成のようになってきた。その分、教師と生徒の年齢差が小さくなってきたので生徒にとっては親しみやすい先生が多くてよいかもしれない。しかし往年の卒業生にとっては草創期からの伝統が若い先生によって失われてしまうという一抹のさみしさがあるだろう。熟年で人間味のある個性豊かな先生というのは“古き良き(?)時代の生駒”の思い出となってしまった。
 高校増設が生み出したふたつめの結果とは生徒の気質が変わってきたことである。中学校の進学指導はひとりの浪人も出さないように努力されている結果、やむなく県立高校を合格難易度順に序列をつけ受験生の偏差値に応じて受験校を決めるといういわゆる「輪切り」を行っている。生駒高校もいまやランキング表のどこかに位置づけられ受験生の方も高校間格差に対して非常に敏感になっている始末である。この結果、入学してくる生徒は皆、同じ程度の学力を持ち、同じようなことを考え、同じような行動様式に出るいわゆる没個性化が、はなはだしくなった。今の若者全体にいえることだが、1つの学校に目を向けると特にそれを感じるわけである。10年前、20年前はいろんな生徒がいた。勉強のよくできる生徒、できない生徒、まじめな生徒、先生にしょっちゅうどなられてもまだやめない生徒、まさにバラエティーに富んでいるというか、層が厚いというか……。
 ところで卒業生にとっては通勤通学途上電車の中で生駒高校生を見かけることが多いことだろう。自分達の現役の時代と少し違っていることに気がつかれるだろうか。開校間もない頃は男子は全員丸刈りであった。時代の流れに応じて長髪が許可され、その後、流行で長くなったり短くなったりした。また鞄については今から9年程前に学校指定の補助バッグというのが生まれた。その後デザインの変更があったが黒革鞄の時代はもう古いようである。出勤時間の遅い卒業生の方は電車の中で遅刻して登校する生徒を見かけるだろう。遅刻する生徒はここ数年減ってきたようだ。昭和58年に遅刻防止カードというものが登場して職員室で入室許可のカードをもらわないと教室に入れないというわけである。またコートなど防寒具も学校指定以外のものは禁止である。もちろんアルバイトや運転免許も原則的に禁止である。このような校則が必要になるくらい「現代高校生気質」は変わったのだろうか。電車の中で出会ったら一度声をかけてみてはどうか。


第20回総会 母校のひととき

 桜の花も散り、日差しも暖かい昨年5月11日に、例年の如く、樫葉会総会が生駒高校体育館で行われました。昨年の総会は、同窓会発足以来、20周年の記念を迎え、有志の方々の協力も得て役員一同、発奮して、企画にのぞみました。当日は、西野初代校長をはじめ、旧職員・現職員の方々の多数の参加をいただき、会員の出席者も、第1期生から第21期生まで幅広く、大成功を遂げることができました。
 写真でも御覧いただけますように、久方ぶりに母校に足を運ぶ方や、恩師や旧友に久しぶりに出会い、学生時代を懐かしむ方などさまざまで、総会の後は、家庭クラブの生徒や食堂のおじさん達に作っていただいた御馳走をつまみながら、和やかな雰囲気でパーティーのひとときを、楽しむことができました。
 また、新企画として、校内に四つのコーナーを設けました。その1つが、樫葉会館での「喫茶コーナー」です。野外に設けられたテーブルを囲んで、昔話に花が咲き、午後1時を過ぎるころには、3~40人の会員で、前庭は、埋めつくされました。また、小運動場のテニスコートでは、「テニスコーナー」として、コートを開放し、用意したボールやラケットを自由に使っていただきました。コートのあちこちで、歓声が上がるほどの人気で、久しぶりの汗に、高校時代を思い出された方も多かったことでしょう。また、樫葉会館2階では、写真コーナーを設け、生駒高校創立から現在までの写真をメドレーにつづったものを、展示しました。このように、同窓会館周辺は、100名以上の方々で、終日にぎわっておりました。この他、玄関前での「写真コーナー」では、記念写真のサービスを行いました。恩師と並んで写真におさまる姿が、何組も見られ、こちらも、好評であったように思われます。新企画については、多少の不安もあったわけですが、多くの皆様に喜んでいただいたことを、世話係一同、大変嬉しく思います。
 今後も、できるだけ多くの方々に参加していただけるよう、工夫を重ねていきたいと考えております。
 会員の皆さん、5月の第2日曜日には、一度母校に足を向けてみませんか。2月には、新校舎も完成しました。友人と連れだって、或いは、家族連れで、参加して下さい。きっと、楽しいひとときが過ごせると思います。


新装された樫葉会館

 同窓会20周年を記念して、樫葉会館が新装されました。ゲートや垣根が、会館の周りに新設され、庭には、レンガや芝生が敷かれました。これらが調和して従前の建物を一層ひきたてています。また、会館前の梅や樫は、四季折々の景観を呈してくれます。新しくなった樫葉会館を利用してみませんか。詳しくは、事務局までお尋ね下さい。


いこまおろし

 生駒高校を卒業して今年で4年目を迎えようとしている。通学に生駒線を利用し、車窓から丘の上の母校を見ると、高校時代を思い出すことがある。▼授業・クラブetc。ある日、用事で母校に足を運ぶことになり、なぜか心は躍っていた。そのまま急な階段を登り頂上についた。▼正門から見る生駒山は昔とかわっていない。うれしく思い足どりも軽く運動場へ向かう。在学当時見慣れた山々が切り開かれ、中学校や小学校、新しい家々が建ちならんでいる。あまりの変化に驚いた。▼用事を終え駅に行くまでに一軒の駄菓子屋パーラがあった。この店、店内、すべて昔のままであった。なぜか心の中が“ホッ”とした。ずっとこのままであって欲しいと思いながら駅へと向かった。


恩師・旧友からの便り

  生駒高校を卒業して、はや8年。卒業後は年々足が遠のき、転居(大阪府)も重なって、今では生駒山を越えることも一年のうちで数えるほどになってしまって少々淋しく思っています。
 高校への距離は遠くなっても、青春時代を思い起こす時、やはり頭に浮かぶのは高校時代のできごとです。幸いなことに、私の高校時代は、自由に伸び伸びと過ごすことができたという印象が強く残っています。クラブ活動では、入学当初より、同級生や先輩、後輩と汗を流しながら、口惜しい思いや楽しい思いを共にしました。毎日毎日、日が暮れるまで、時には日が暮れてからも練習に明け暮れたものです。このクラブ活動を続けたという誇りが、今まで何事においても飽き性であった私に、卒業後もずっと軟式テニスを続けさせてくれているのかもしれません。
 旧友との思い出の中でも今から考えると、「16・17という年頃であったが故に…。」と笑えるようなことを、当時はさも世の中のすべてを知り尽くしたような自慢げな顔をしていました。そんな仲間ともなかなか顔をそろえる機会がありませんが、それでも風の便りで噂を耳にする度に、友人の顔や姿が鮮明によみがえり、そんな時、自然に口元がほころぶのです。
 また多くの名物先生のことも懐かしく思い出されます。除夜の鐘を聞きながら剃るのだと12月になると髭を伸ばしておられた先生は特に印象深く残っています。私が3年のときの担任の藤岡明先生は初めて卒業生を送り出すということもあって卒業式には大粒の涙をぽろぽろ流されるほどの感激派(?!)でした。
 現在、私は大阪市内の中学校に勤務しています。考えてみれば、この職業も小学校からの希望であったとはいえ、その実現に向けて真剣に取り組み始めたのが生駒高校時代であったようです。教わる側から教える側への180度の転換、毎日の仕事の中で生徒達に自主的な行動を身につけさせたい、人間的なかかわりを大切にする心を育てたいと考えるのも、やはり、我が高校時代のあの熱中先生のもとで送った頃を回顧すればこそのことであります。
 昨年は樫葉会も20周年という区切りを終え、すでにまた新しい時代を迎えようとしている今、樫葉会と現役諸君との深い結びつきが、今後さらに浸透していくことを願ってやみません。

21期生 内田洋子 なんといっても冬の寒い日の食堂でのあったかいコーヒーとカレーまんがなつかしい。看護学校は大変忙しいとは聞いていたがこんなに休日が少ないとは思っていなかった。白衣の天使は白い作業衣を着て大いそがしであります。

池上由起男先生(昭和57年~60年)
 生駒高校での最後の2年間は、自分の教員生活でおそらく最高に燃えた時期でした。初めて3年生を担任して、ほとんど何もわからないまま進学、就職の仕事を、ただやみくもに進めて行きました。ひたむきに頑張ってくれた生徒たちの姿が心に焼きついています。
 教員として本当のスタートは生駒からだったと思います。そんな生駒高校が、良き先生方と卒業生の支援をうけて、発展を続けられることを心からお祈りしております。

21期生 浜崎樹子 高校時代の思い出といえば、修学旅行、そしていろいろな人たちと知り合いになれたことです。現在は、大学で勉強・クラブ・バイトにと忙しい日々を送っています。

21期生 橋田千佳 高校時代の思い出といえばやはり演劇部のことです。対立も多かった部ですが、劇が終わるたびに仲間の親密さは、ましていったように思いますし、それだけ信頼し合い、喜びあうということができたし、私にとってこれからも大きな影響を与えることでしょう。
 現在私は大阪学院短期大学の経営実務科に通い、会計を学んでいます。昨年11月に簿記検定を受け、3級に受かりました。クラブは茶道部に入っています。
 毎日の学生生活に「何かが違う」と感じながらも、まあ普通にすごしています。

伏見敦先生 毎年の総会によく出席させて頂いています。総会も昨年で20周年を迎えましたが寂しいことに、出席されるのは、同じような方ばかりです。初期の頃の人か、または、卒業して2~3年の人ばかりです。もう少し広い範囲にわたって参加して欲しいものです。ですから、総会のほうも家族そろってこられるような楽しい催しをしてはどうでしょうか。これから、役員の方が工夫して楽しい総会となると思うので、卒業生の皆さん、1人でも多く総会に出席して旧友と再会しましょう。

21期生 田岡範久 現在、大阪工業大学に通っています。通学の途中、よく同級生などに会ったりします。その時は、高校時代の懐かしい話ばかりです。昨年の総会には、参加できませんでしたが、今年は、是非、参加したいと思っています。1人でも多くの友人に会いたいので、皆さんも、是非、参加しましょう。

19期生 亀井忠吉 現在、仏教大学に通っています。通学に片道2時間30分かけていますので、大学に行くだけで疲れている毎日です。その点、高校の時はよかった。家から約30分。今から思えばなんと近いことか…。生駒線を利用している私は、一分駅に電車が止まると、ふと、高校時代のことを思い出します。特にクラブでバレーボールの練習にあけくれたこと、顧問の先生にどなられたことなどが心に残る思い出となっています。
 後1年で卒業、就職のことを真剣に考えはじめた今日この頃です。

――多くの寄稿ありがとうございました。都合上、未掲載を御了承下さい。――

14期生 鈴木慶彦


母校四半世紀の変遷 ―新校舎完成する―

 今春、本校の中庭に北館・南館に続く第3の校舎が生徒数の増加に応じて増築された。母校創立25周年にあたる今年を迎えて生駒高校の外観の移り変わりを見てみよう。1期生の会員の方にとっては何といっても仮校舎時代の事がなつかしいことだろう。生駒小学校の講堂を六つに間仕切り、その他小学校本館や公民館を教室として借用し昭和38年8月の北館の完成を待ったのであった。この年の11月、全館完成し翌年4月には体育館完成を機に本校の落成を祝う記念式典が奥田知事はじめ県下の著名人ら300余名の参列で盛大かつ厳粛に挙行された。創立3年目を迎える昭和40年になると生徒・父母の要望から育友会での討議の結果、団体費で食堂を建設する案がまとまった。当時の工費9,000,000円を投じて県下に誇るデラックスな食堂が完成した。そしてこの年、はじめての卒業生を送り出すことになり、いよいよ「樫葉会」の発足となる。さらに翌年にはプールの建設も是非ということで小運動場の東の山を切り崩し、工事が進められ天理大学の選手を迎え、プール開きを行った。創立6年目の昭和43年、県当局からの格技場の建設はありがたかった。最近になって文部省の格技研究指定校に選ばれるなど本校の格技教育の礎となっていったのである。昭和44年、野球のバックネット、45年運動部部室ができた。また県下の入学希望生徒数が増加して昭和47、48、50、51年度の入学生は9クラス制をとった為、応急のプレハブ教室も登場した。卒業生の残して行った卒業記念の品々も四半世紀の歴史を感じさせる。校旗・正面玄関の大時計・泉水・藤棚など後輩生徒の為に色々と寄贈された。中でも第4回卒業生の寄贈してくれた温室は17年間の風雪に耐え、いよいよ解体と決まった年に第21回卒業生によって新しい温室が寄贈されたことはまさに樫葉会員にとっては感激に等しい先輩と後輩との提携であった。さらに「けんよう」の前号でも紹介されたように昭和58年の秋に我が樫葉会の貯蓄と、おしみない会員の方々の寄付を合わせて樫葉会館を小運動場西端に建てることができた。
 現在、再び9クラス時代を迎えようとしている。今春完成した新校舎は一階に普通教室、2階には県下でも誇りうる立派な音楽室を設けている。また南北両館の屋上のひさしが老朽化して剥落した為、全面改修し化粧直しをした。なにか初心に戻ったような気分で来たる時代を迎えようとしている。


編集後記

 去年の創刊号に続いて、「けんよう」第二号をお届けします。慣れない者たちがペンとメモを持って、皆さんの所にも取材に行くことがあるかと思いますが、その時は協力をよろしくお願いします。今回協力頂いた皆さん、どうも有難うございました。
 卒業してしまうと、足が遠のいてしまいますが、いつまでたっても、生駒高校が私達の母校ということに変わりはありません。これを機会に、また高校時代のことを懐かしく思い出して頂ければ幸いです。
 五月の母の日に、樫葉会総会も毎年行なっておりますので、御都合のつく方はお待ちしておりますので、是非いらして下さい。